グルグル

頭の中のグルグル、
意識できている時には大丈夫だけど、
意識できていないのにグルグルしている時には回避している可能性がある。

別の何かでごまかししまっている。
お酒、
食べること、
ゲーム、
はたまた誰かに話すことまでも、
回避のうちに入るのではないかと感じる。

誰かに話すことで問題解決する為には、
おそらく自分の中に解決する意欲みたいなものがないといけない。
誰だって解決したいから誰かに聞いてもらっているはずだ。
それでも誰かに聞いてもらうだけでは解決に至らない。

同じ問題を、
同じ相手に聞いてもらう。
それが変化を伴うものではなく、自分がいつも同じ言葉を発しているのなら要注意だ。
そのやり取りで安心はするが、先述の何かでごまかすことと何が違うのだろう。

何年もの間、誰かに話すことでの解決を試みてきた。
そしてある時パチリと目が覚めたように、
相手に依存している自分に気づいてビックリした。
聞いてくれた人に対して申し訳ない気持ちになったし、
長いこと聞いてくれる人に依存していた自分にゾッとした。

誰かと対等な関係でいることはステキだ。
年齢や性別や立場を超えて。
今、それを超えて人と関わりなさいと伝えてくれている人が近くに存在する。

頭の中のグルグルは自動反応として起こってくるが、
気づいたら「そこにいるね」と気づいている合図を送ればいい。
頭の中のグルグルは捏造された現実を植え込もうとするが、
偽物の現実に何の解決策もないのだ。
固まって動けなくする目的の偽物の現実だから。

頭の中のグルグルの一番の弱点は、
気づかれること、存在を認められることだ。

自分の頭の中ののグルグルに気づき始めると、
誰かのそれに対しても気づき始める。
昨日は誰かのそれに対して「気づいているよ」とアクセスしてみた。
その実験は上手くいったか分からないが、そのうち結果を受け取ることになるだろう。


最近は体に作用するグルグルを体験中。
それは武道のお稽古で投げられた時のグルグルだ。
グルグルというよりも、グルングルンという感じ。

投げられた時の身体はなぜかとてもしなやかに動く。
まるで体が喜んでいるようにバウンドし動きを味わう。
闘いの場面で本気で投げられたら怖いのだろうけれど。
人を投げるお稽古よりも、投げられるお稽古の方が好きだ。
投げられた瞬間の一瞬の無、
全てから自由になる感覚。

生活の中で何に例えることが出来るのだろう。
人との関りの中で、おそらく同じ場面に出くわすことはある気がする。
具体的にどんな時なのかはまだ見えないが、
必ず繋がっている前提があるはずだ。

投げることと、投げられること、
同じように好きになった時、
誰かと繋がることも、もっと楽しめる時が来るだろう。

過酷な現状でもかろうじて壊れない見えない芯を持っている。
身体の芯というよりも、
もしかしたら命に対する安心感みたいなものなのではないだろうか。

分身みたいな存在が、
自分の内側と、その時々の周りに存在する。
なかなか厳しい存在ではあるが、
やさしく愛に満ち溢れた存在でもある。
その存在に、
今をありがとう
と伝えたい気持ちになった。