ライオンズゲート

金曜日の午後、意見が食い違いぶつかりそうになる場面に出くわした。
詳しくは分からなかったけど、問題が別の人にあることはよくわかった。
間違って伝わったことによる誤解。
コミュニュケーションエラー。
それに日々のフラストレーションも加わる。
予想はしていたけど、旋律が走った。

諍いに対して、小さな子供のように怖くなるが、
全力で助けようとする。
怒りの奥の悲しみが伝わって来て、泣きそうになるのをこらえた。
気づくと、間違って伝えてしまった人に変わって
「ごめんね、申し訳ない」と謝っていた。

その場は無事に納まったけど、
人の心の中は分からない。
その人が元々持っている怒りもあるだろうし、
反応の仕方もそれぞれ。

二日経って気づいたこと。
間違って伝えてしまった人に対する怒りは覚えていた。
しかし、諍いが始まる瞬間を察知した時の戦慄は意識から消していた。
というよりも、単純に怖いと感じた感情を消したのだった。
また、関係ない自分が諍いを止めてよかったのかどうかも。
誰かに傷ついて欲しくないというのは表面的で、
人が争うのを見たくなかっただけで、
余計なことだったのではないだろうか。
それとも、目の前に見たのは内側にある怒りだったのだろうか。

誰もが居たい場所に居るわけじゃない。
先述の発端になった人に、
「ここに居たいの?」と先週の始めに聞いた時、
「居たい」と答えた。

どんなことをしても、
どんなやり方をしたとしても、
自分の意思で居たいと思うならそれでいいんだろう。
それはどんなに弱さを見せても強い意思だと言える。
そのことによって誰かを傷つけても意思を貫く強さ。

そう考えると、人を傷つけないで存在することなんて出来ないってことだ。
人と関わって存在していくことへの恐れ。
存在することが悪だと考える歪み。
原点回帰。
またここへ戻ってきてしまった。

ライオンズゲートが開く期間。
何が起こるか分からない。
感情を揺さぶられることに対して冷静でいられるように、
自分の中心を感じ続けるしかない。


消えてしまいたい時

消えてしまいたい思いがある。
存在していた所からの消去ではなく、元からなかったことにしたいと。
根強い自責の念だ。
存在悪。
そんなものを感じる。

何のために、そんな思いを作り上げるのか、
何かそれによって救われる気持ちがあるんだろう。
それとも、誰かの存在を大いに肯定するためにだろうか。

昨日のことを思い出す。
否定的な言葉を伝えないように気を付けていたけど、
限界に達してしまった。
重すぎる鎖は外したくなるものだから。

何かのきっかけで、持っている自由を思い出してしまう。
秘めている本質ってある。
嫌なものはイヤだと伝えればよかったのに。
それをすることで相手を傷つける気がして言えなかった。
我慢しすぎてパンクするくらいなら、
今はもう聞けないと言えばよかったのだ。

誰かの存在を肯定したいし、
誰かの助けになりたい。
けれど、心に入って来ない言葉を聴き続けることは苦しかった。

誰かがそこを立ち去るなら、
自分がそこから立ち去る方がまだいい。
どこへ行く?
どこへ行けるか?
そんなこと分からないけど。

消えてしまいたい時って、
大いに存在して主張したい時なのかもしれない。

思いが伝わらないジレンマ。
それはどちらも同じように持った時に強まる。
どんな時も優しい人でありたい。
全てを包含するほどには成長していない。
小さな点の優しさは、まだ誰かを助けることはできなかった。

フワフワ

中心にずっとあるフワフワ。
傷ついた誰かを癒すことに特化しているが、
現実世界を生きることを妨げる。

フワフワ漂いながら自由でいたいと願う。
同じ場所に長く居ることによる不自由さ、
そこから逃げ出したくなる。

脆弱さを外に出せない。
不死身だと表明する。
傷ついても立ち直ることはもちろんできるけど、
その後も傷をえぐるように何度も繰り返し思い出す。
グルグル回る再生フィルムのようでいて、
新しく同じようなものを作り出している。

フワフワは何かを知りたがる。
誰かの声に耳を傾けたくなる。
なぜ今そこにいるのかを問いかけたくなる。

昨日、ふと問いかけたら答えてくれた。
多くの人の上に立つことよりも自由を選択した人。
「選ばれた人として進む道だったのに?」と聞いたら、
肩書や力を捨てたことを後悔していないという。
大きな組織の中では、言葉や行動を大きく制限される。
些細な会話が問題になってしまったりするらしい。

それでも、
人を動かすことが出来るのに、
それをしないって勿体なくない?
その力を使わないの?

人を動かすことも、器用に何かを進めることも苦手なのに、
それを求められ、
まだそこに居続ける自分と真逆。

誰でも道は自分で選ぶしかない。
大切にしたいものを持ち続けながらも、
現実の世界に合わせていく。
自分を大切にすると決めるのも、
他人を優先すると決めるのも、
全てがその選択により、
目の前の景色が現れる。

誰かと関わらない時間。
せめてこの時を、自分を責めずに過ごそう。

罪悪感の影響

子供の頃から常に罪悪感を持っていた。
どこから来るのかも分からないその感覚に何度食いつぶされそうになったか分からない。
ずっと変わらずにあるそれが、外側に大きな影響を及ぼすことを改めて知る。

昨日その罪悪感が頭を乗っ取る瞬間に出くわした。
ミスが発生し解決の手がかりを求められた時のことだ。
もうその時に「きっと自分のせいだ、何か間違ってしまったのだ」とスイッチが入った。
冷静な判断が出来ず、視野がぐっと狭くなる。
結局、他の人の確認ミスだったことが後から判明。
しかも解決後にハッキリとした理由が見つからないまま。
原因究明しようとしたら、全くつじつまが合わずに、
ミスをした相手は自分のミスだと理解していなかったし、
正当性を主張し続けた。

こんなにも違いがあるのかと愕然とする。

罪悪感さえなければ、
時間を奪われることも無かった。
さらには外側に適切な判断を伝えることも、
グチャグチャになった頭の中ではできなくなる。

利点と言えば、
罪悪感をもっているからこその責任感ともいえるけど、
それは他の人の無責任を助長することになる。

罪悪感を全く無くすというより、
パーセンテージを減らす試み?

誰かと繋がるためにも、
人を動かすためにも、
自分の人生を愛するためにも、
全てに於いて影響を及ぼし続けるそれを減らすこと。

そうなんだろうか?
減らさなくても、
無くさなくても、
それを意識し、
「そこに居ていいんだよ」と認めることの方が、
自分にやさしく、人にも優しいのではないか。

ふと、その罪悪感を動物に例えてみると、
「犬」と返ってきた。
猫のように気まぐれではなく、
犬のように何かに忠実な罪悪感なのだ。
何に対してといえば、
おそらく、生まれた時に決めた約束みたいなものに対してだ。

そして、昨日の罪悪感。
時間を奪い、頭を奪われたが、
それを見ている自分が居たことに気づけたし、
落ち着いて本質を見るようにアドバイスしてくれた人も居た。
結果的に見ると、人々の動きが見え、
捉え方の深さの違いも理解できた。

人の中を変えることはできないが、
そこから何を受け取るかは自由に選べる。
せっかく存在しているのだから、
罪悪感もそうやって乗り越えていけたらいい。

人を否定するルール

全ての繋がりのある人々は、
何らかの重なりを持つ。
その相手を否定するってことは、結局自分を否定することでもある。

違和感を感じたり、イライラする感覚を覚える時、
必ず、誰かを思いのままに動かしたい衝動がある。
それに徹底的に向き合うよりも、
浅い部分で留まり戻ってくることができたなら、
その誰かとの接点は離れていく傾向。
深くまで潜って相手を思い通りにしたい時は、
今持っている感情は増幅される。

感情のままに潜った時、
何も見つけることは出来ない。
何もない空白を作ることによってしか、
何かを発見することは出来ない。

浅く繋がるなんてどうなんだろうと思っていたけど、
浅く繋がることも選択肢としてあるってことを知っていればいい。

「自分は間違ったことはしてない」としか言えないことは、
とても弱いってことなんだと、
今日改めて知った。

七夕の今日、優秀な教師が現れ、再設定を促された。
もっと耳を傾け、
さらに謙虚に、
そして自由でいようと思う。

武器を持て

武道のお稽古で手を出す時に、握手の方の手をだしてしまう。
師範がその度に「違うよ」と教えてくれるのだけど、
無意識に出した手はそれを疑問にさえ思うことがない。
戦う姿勢が全くないってことだ。

また、人に合わせてしまうことも。
以前2歳児と遊んだ時に、ふっと2歳児の視点になっていて、
普段だったらわかりそうなことを2歳児に教えてもらていた。
そんなふうに誰かの空気の中に入るのは誰よりも得意。
合わせてしまうことが容易にできてしまう。

誰かと話す時、自分発進で伝えることが苦手。
だから何か仕事をお願いする時にもそれが発動する。
相手の空気に飲み込まれる。
やりたくない雰囲気と否定を受けると、
頭では伝えなくてはならないことが分かっていても、
身体は引き返そうとする。

「自分でやらずに人に依頼しなさい」という指示。
自分でやった方が説明する手間もかからず、
心もザワザワせず楽なんだけど、指示に従う。
その前に何度も与えられた武器。
指示に従いたくない相手に対し、相手よりも強い人を前面に出す。
「今呼んできます」とか、
「○○さんの指示です」とか。

今日もそういう意味では武器を使えなかった。
指示した人に、上手く伝えることが出来なかったことと、
「受け入れたくない姿勢が前面に出ていた」と伝えたら
「武器を持たずに行くからだ」
「戦国時代に武器を持たずに戦場に向かうようなものだ」と言われた。

仕事って戦いなんだ。
何が苦しかったのか今日やっとわかった気がする。
戦いたくないし、武器を持つなんて何よりしたくないのだ。
そういう姿を見ていてイライラする人もいるらしい。

生きることが戦いに出ていくことなんだとしたら、
誰かに対し警戒する気持ちがあるのは当然。
その誰かが武器を持っていることを分かっていて、
何時武器を振りかざすのかを見ている。
それなのに相手の初動を確認する途端、
その空気に飲み込まれてしまっていたことを後で気づく。

いつの時か戦わない選択をしたこと。
大いにそれが影響している。
命を守るためにさえ武器を持つことが出来ないのだろうか。
誰かに安心を与えるとか、
誰かに寄り添うとか、
それなら自然に出来る気がするのだけれど